今月のメッセージ

ローマ教皇フランシスコのメッセージ

 イエスがご自分の復活が現実であると強く主張したことにより、からだに対するキリスト者の考え方が照らし出されます。からだは障害でも、魂の檻でもありません。からだは神によって造られます。からだと魂が一つにならなければ、人間は完成しません。(中略)からだは、罪の口実や道具になりえます。しかし罪を引き起こすのはからだではなく、道徳的な弱さです。からだとは、魂と一つになって神の似姿を完全に表すよう造られた、神からの素晴らしい贈り物です。したがってわたしたちは、自分と他者のからだを心から尊重し、大切にしなければなりません。

 隣人のからだを辱めたり、傷つけたり、暴力を加えたりすることは、創造主である神に対するぼうとくです。わたしは、からだを手荒く扱われている子ども、女性、高齢者のことをとりわけ考えます。その人たちのからだの中には、キリストのからだがあります。キリストは傷つけられ、嘲笑され、中傷を受け、侮辱され、むち打たれ、十字架につけられました。そしてイエスはわたしたちに愛を教えてくださいます。愛は、イエスの復活によって、罪と死より強いものとして示されます。その愛は、現代の奴隷制の痛みをからだに受けているすべての人々を救おうとします。

 弱者への権力の乱用や、霊性を抑圧する物質主義がはびこる世界の中で、今日の福音は、復活した主との出会いによる深い驚きと喜びに、心の底から目を向けるよう求めています。そして、主が歴史にまいてくださるいのちの新しさを、新しい天と新しい地へと向かわせるために、その新しさを受け入れ、感謝するよう招いています。この旅路を支えてくださるようおとめマリアに願いつつ、信仰のうちに自分自身をマリアのとりなしにゆだねましょう。 
       
                                                  教皇フランシスコ、2018年4月15日「アレルヤの祈り」でのことば

フランシスコ教皇

『今月のメッセージ』 2018年7月

神の栄光のために ―― 苦しみの意味 ――

                 静清地区協力司祭 岡村 巌神父

静清地区5教会

 静岡教会での聖書の学び(深読み)のため、月2回火曜日の朝10時頃市立病院の前を通ります。
いつも道路の左側には、車の列が続いています。受診のため恐らく午後にまでかかってしまうことでしょう。ここだけでなくどれほど多くの人が病と闘っていることか、思いめぐらしています。
病気だけではなく、人生の前には、いつまでも続くいじめ、セクハラ、パワハラ、テロ、戦争など、多くの人が傷つき、死に直面しています。
このような苦しみをどのように考えたらよいのでしょうか。
 
 イエスさまは、宣教活動の中で、多くの病人と出会い、癒されました。ある時、生来、目の不自由な青年と両親に出会いました。弟子たちはたずねました。「この青年の病気の原因は何でしょうか。本人の罪でしょうか。親の罪でしょうか。」
イエスさまは答えられました。「本人や両親の罪ではない。神のみ業が、この人の上に現れるためだ。」とお答えになって青年の目に手を当てて、光を取り戻されたのです。(ヨハネ9:1-12)
イエスさまは、数多くの奇跡を行い、神の国について話され、いよいよ最後の使命、すべての人の罪の贖いのため、ご自身、十字架の苦難の道を歩み始めたのです。
 
 それは、予想しただけでも苦しいことでしたので、天のおん父に願いました。
「父よ、わたしをこの苦しみの時から救ってください。」
すると天からおん父の声がありました。
「わたしは既に栄光を現した。再び栄光を現そう。」
                  
(ヨハネ12:27・28)
 この天からの声は、イエスさまの洗礼と変容に続いて第3番目の父からの啓示であり、究極の苦しみである十字架が、イエスさまご自身の栄光となり、又、おん父の栄光の輝きに寄与するものになる、という意味です。
 
 このお言葉に、私たちの苦しみの意味が隠されていると思います。私たち一人ひとりが受けるであろう、或いは受けている苦しみを、イエスさまの十字架に合わせて、神にお捧げした時、私たち自身の栄光と、神への栄光の奉献に参加していることを表しています。奇跡的な改心を得た聖パウロの殉教前の一節を想い起しましょう。
「今の時の苦しみは、将来わたしたちに現れることになっている栄光に比べれば、取るに足りないものと、私は思う。」            
(ローマ書18:28)

更新履歴

2018.05.01

教皇メッセージ「世界召命祈願の日」、和野信彦神父「日曜日に集まるということ」を掲載しました。

2018.05.01

新規公開しました。

カトリック静清地区共同宣教司牧委員会