今月のメッセージ

ローマ教皇フランシスコのメッセージ

 「世界平和の日」メッセージ

 平和は、詩人シャルル・ペギーが語る希望、すなわち暴力という石の間で咲こうとする、か弱い花のようなものです。だれもが認識しているように、どんな犠牲を払ってでも権力を求めることは、虐待と不正義につながります。政治は市民権と人間活動を築くうえでの基本的な手段ですが、それをつかさどる人々が、人間社会に奉仕するのでなければ、抑圧、疎外、さらには破壊の道具にすらなってしまいます。

 「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい」(マルコ9・35)と、イエスは語りました。聖パウロ六世が強調しているように、「地方、地域、国、全世界といったそれぞれのレベルで真摯に政治に取り組むことは、一人ひとりの人間には、具体的な現実を識別する義務、さらには都市、国家、人類の善をともに達成するために与えられた、選択の自由の重要性を認める義務があることを意味します」。 

 実際、自国のために尽くし、そこで生活する人々を守り、国民にふさわしい公正な未来のために必要な条件を整えるという使命を担うすべての人にとって、政治の役割と責任とは、絶え間ない挑戦です。人間のいのちと自由、尊厳に対する根本的な敬意のもとに行われるとき、政治は愛のわざの卓越したかたちとなるにちがいありません。               ー(2019年1月1日)「世界平和の日」教皇メッセージより ー

フランシスコ教皇

『今月のメッセージ』 2019年 1月


「あるがまま」
                       カトリック静岡教会 牧山善彦神父

崔助祭・司祭叙階式

 明けましておめでとうございます。まずは、2019年の皆様の日々の歩みの上に神様の恵みと祝福をお祈りいたします。かつては年の初めにすべての人が1歳ずつ年を重ねるという考え方があったようですが、個人的には2018年の最後の1日と、2019年の最初の1日の間に、感覚的な差はほとんどないように思えます。それでも、わたしたちは暦における年の初めの1日をひとつの節目として数え始めます。この節目にあって、これまでの1年のことを思い起こしたり、これからの1年に思いをはせたりする方もいらっしゃることでしょう。かくいう自分もかつては新しい年の初めにいくつか目標を立てていた時期もありましたが、いずれもあまり長く続かなかったことを覚えています。
 
教会のなかにも様々な節目があります。身近でありながら大切な節目のひとつは、7日ごとに主の日を祝うことにあると言えるでしょう。人によっては、日ごとの祈りのうちに小さな節目の時を持つ人もいるかもしれません。また、年ごとに祝う主の降誕や、その前後にかけて展開される待降節と降誕節、あるいは復活祭や、その前後にかけて展開される四旬節と復活節もひとつの節目になり得るでしょう。個々の共同体においては、共同体としての成立や献堂から数えて一定の時をひとつの節目として祝うこともあるかと思います。
 
わたしたちが生き続けていく時間のなかに節目を設けることは、自分がこれまでどのように歩んできて、今どこに立ち、これからどこに向かっていくのかを、少しだけ足を止めて思い巡らせる時を作るはたらきがあるのかもしれません。とりわけ今という時を見つめるなかでは、思い描いた理想と現実の間に生じる様々な思いに触れることにもなることでしょう。今をあるがまま受け止めることは、当たり前のようで案外難しいことなのかもしれないと感じることがあります。「かつてはこうであった」は必ずしも今を規定するもではなく、「これからこうありたい」も今という現実から築くより他にないからです。
 
イエス様はある意味、多くの過去と未来の思惑の只中にあって、あるがままの現実にまなざしを注ぎ、受け止めてくださった方と言えるでしょう。無力な幼子という今、安息日に関係なく病の苦しみにある人の今、大切な家族を失った人の今・・・そして、人々の理想とするメシアの姿とは正反対に十字架上で自らを献げる今。「わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示してくださいました」〔ローマの信徒への手紙5章8節〕。神の愛は、わたしたちの理想の先に与えられるものというより、むしろわたしたちの弱さや至らなさを含めたあるがままの現実の只中に注がれていくものと言うことができるでしょう。
 
自分が高校生の頃からずっと気に入っている「GIFT」という曲に「当たり前のようで奇跡的 ほらそこにも神さまのプレゼント」という歌詞があります。日々の生活の中における節目には、今日という日が当たり前のようで奇跡的な現実であることを思い起こす意味も含まれているのかもしれません。この1年が、神さまのまなざしの前にあるがままのわたし、あるがままのあなたとして互いに大切にし合う日々でありますように。

   ご公現の祝日 3人の博士たちの訪問

 聖書は今も救い主の誕生を私たちに伝える。

 幼子はインマヌエル(神は共におられる)と呼ばれる

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カトリック静清地区共同宣教司牧委員会