今月のメッセージ

ローマ教皇フランシスコのメッセージ

 「世界平和の日」メッセージ(2)

 第一次世界大戦の終結から100年後の今日、わたしたちはその戦闘で若者がいのちを落とし、一般市民が引き裂かれたことを思い起こすとともに、兄弟姉妹どうしの戦争が残した重大な教訓をさらに深く胸に刻みます。それは、力と恐怖の均衡だけの問題として、平和をとらえてはならないという教訓です。他者を脅すことは、相手を物として見下し、その人たちの尊厳を否定することを意味します。ですから、威嚇的な言動の過激化は、抑制のきかない軍備増強と同じように、倫理にも真の融和の追求にも反するものであるということを、わたしたちはあらためて明言するのです。
 
 もっとも弱い立場にある人々が見舞われた恐怖のために、全人口が平和を求めて故郷を去ることもあります。悪いことをすべて移住者のせいにし、貧しい人から希望を奪う政治的な言動は許しがたいものです。そうではなく、平和の基盤となるのは、経歴には左右されずに一人ひとりに敬意を払うこと、法と共通善を尊重すること、わたしたちに託された被造物を大切にすること、過去の世代から受け継いだ倫理的財産を尊重することであることが強調されるべきです。

 また、紛争地帯にいる子どもたちと、自分のいのちと権利を懸命に守っているすべての人に、わたしたちはとりわけ思いを寄せます。世界では、六人の子どものうち一人が、たとえ少年兵として徴用されたり、武装勢力の捕虜になったりしていなくとも、戦争による暴力とその余波の影響を受けています。子どもたちの尊厳を守り、子どもたちを大切にしている人々のあかしは人類の未来にとって極めて重要です。                     
                       ー(2019年1月1日)「世界平和の日」教皇メッセージより ー

フランシスコ教皇

『今月のメッセージ』 2019年 1月


「きょうかいは、ひとりひとやく、ぜんいんさんか」
 
               カトリック静岡教会主任司祭 和野信彦神父

和野信彦神父

 先日、古い資料を整理していたら、東京教区の関口教会の教会報がでてきました。その紙面の最初に「きょうかいは、ひとりひとやく、ぜんいんさんか」という主任神父さんの文章に目がとまりました。

 東京教区のカテドラルというとても大きな教会でも信徒のみなさんに教会活動への参加を呼びかけているのか、何千人もの信徒がいるので人材不足なんて無縁じゃないのかと思いますがそうでもないようです。どうも、この人材不足が起こらないことがかえって問題であるのかもしれません。教会が大きければ大きいほどそこで行われている教会活動に対して人任せの想いが強くなってしまっているようです。ある人が教会のために責任を感じて行っていることに対して、それは自分とは関わりのないもの、自分にはその資格がないものとして捉えてしまい、教会奉仕の役割が固定化してしまう現状があったようです。うーむ、贅沢な悩みのような気がします。

 以前いた小教区においては、信徒数も少なく人手不足ゆえ役割の固定化または兼任などがあり、それで何とかやっているという感じでした。「それに比べりゃ」と言いたいですが、よく考えてみるとこれは教会の本質に関わってくる呼びかけのようにも思えます。
つまり、信徒が教会の奉仕に対して「誰でもそれを担うことができる」ものであるという認識がまだ伝わっていないということでしょうか。これは教会の規模の大小に関わらず大切なポイントであると思うのです。

 教会は「共同体」と表現されます。ある程度の人間が揃えばその中で役割が生まれてきます。そしてその役割を分担して負担していきます。とてもすばらしいことです。でもそのときに、これはわたしの役目、あれはあの人の役目というように意識の中で固定化してしまったら、自分以外の奉仕に目を向けることができなくなってしまうかもしれません。または、せっかくの奉仕がもしかすると「教会のため」ではなく「自分のため」になっていってしまう危険性もあります。

 キリストの教会=神の民は、ご自身を人間のために全く捧げてくださった御子を主と呼び、その生き様に従って歩もうとする者の集まりです。であるならば、私たちも捧げましょう。「仕える」という基本をイエスが教えてくれました。奉仕というものは自分が生きることではなくて、ほかの人々を生かしていくということなのですよね。そういう思いであればきっと他の人の「奉仕」に感謝できるでしょうし、自分もまたその「奉仕」にいつでも開かれていることを意識できると思うのです。

 「きょうかいは、ひとりひとやく、ぜんいんさんか」。このことばは教会共同体に属する者が誰でもその奉仕に参加できることの大切さを示します。そして共同体がそれを、感謝をもって受けとめるとき「神の民」としてのありようが実現していく。そんなメッセージがこもったことばのように思います。

  集会祭儀で聖体奉仕をつとめるのも私たちの仲間

  「キリストはぶどうの木、私はその枝のひとつ」

   子どもたちの信仰を育てるのも私たちの喜び

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カトリック静清地区共同宣教司牧委員会