今月のメッセージ

ローマ教皇フランシスコのメッセージ

第54回「世界広報の日」教皇メッセージ②
「あなたが子孫に語り伝える」(出エジプト10・2)


人生は物語となる

3. 種々の物語から成る物語
 聖書は、種々の物語から成る物語です。なんと多くの出来事、民族、人々が示されていることでしょう。そこには冒頭から、創造主であり語り手でもある神について記されています。神がことばを発せられると、それは実現するのです(創世記1章参照)。神は、ことばを発することでさまざまなものにいのちをお与えになり、その頂点として、自由意志をもったご自分の話相手として、またご自分とともに歴史を生み出す者として、男と女をお造りになります。詩編では、被造物が神に呼びかけています。「あなたは、わたしの内臓を造り、母の胎内にわたしを組み立ててくださった。わたしはあなたに感謝をささげる。わたしは……驚くべきものに造り上げられている。……秘められたところでわたしは造られ、深い地の底で織りなされた。あなたには、わたしの骨も隠されてはいない」(139・13―15)。わたしたちは完成されて生まれたのではありません。それどころか、つねに「編まれ」、「織られ」なければなりません。いのちは、「驚くべきもの」であるわたしたち自身を織りなし続けるよう促す招きとして、わたしたちに与えられているのです。

 この意味で聖書は、神と人間との壮大なラブストーリーです。その中心にはイエスがおられます。イエスの物語は、神の人間への愛を完成させ、同時に、人間の神へのラブストーリーも完成させます。ですから人間は、種々の物語から成るこの物語の中の重要なエピソードの数々を、世代から世代へと語り伝え、記憶にとどめなければなりません。それらのエピソードには、起きたことの意味を伝える力があるのです。

 今年のメッセージのタイトルは、出エジプト記から取られています。出エジプト記は、神がご自分の民の歴史に介入されることを語る本質的な聖書物語です。奴隷となったイスラエルの子らが神に向かって叫んだとき、神はその声を聞き、思い起こされます。「神はその嘆きを聞き、アブラハム、イサク、ヤコブとの契約を思い起こされた。神はイスラエルの人々を顧み、み心に留められた」(出エジプト2・24-25)。しるしと奇跡を通してもたらされる抑圧からの解放は、神の記憶に由来します。そのとき、主はこれらすべてのしるしの意味をモーセに知らせます。「どのようなしるしを行ったかをあなたが子孫に語り伝え、わたしが主であることをあなたたちが知るためである」(同10・2)。出エジプトの体験が教えているのは、神についての知は何よりも、神がいかに現存されているかを次の世代に語り継ぐことによって伝えられるということです。いのちの神は、いのちについて語ることによって伝えられるのです。

 イエスご自身も神について、抽象的な話ではなく、日常生活にまつわるたとえ話や短い物語を用いて語りました。そこでは人生は物語となり、そして、聴衆にとっては、その物語が自分の人生となるのです。その物語はそれを聞く者の人生に入り込み、その人生を変えるのです。

 もちろん福音書も物語です。福音書は、わたしたちにイエスのことを伝えるだけでなく、「行為遂行的」1)でもあり、わたしたちをイエスに一致させます。同じ生き方をするために、同じ信仰に結ばれるよう福音書は読者に求めます。ヨハネによる福音書は、至聖なる語り手──言(ことば)、神であることば──が、ご自身について語られたことを伝えています。「父のふところにいる独り子である神、この方が神を語られたのである」(ヨハネ1・18参照)。わたしが「語られた」という表現にしたのは、このことばの原語exeghesato(示された)は、「啓示された」とも「語られた」とも訳せるからです。神は自ら、わたしたち人間の中にご自分を織り込むことにより、わたしたちの物語を織る新しい方法を示してくださいます。 (続く)
                    ローマ サン・ジョヴァンニ・イン・ラテラノ大聖堂に


「新型コロナウイルス感染症に苦しむ世界のための祈り」
          
2020年4月 日本カトリック司教協議会認可

教皇紋章
フランシスコ教皇訪日記念ミサ

『今月のメッセージ』 2020年 7月



 ミサについて感じていること
                 千代田教会 秋山 涼(高校1年)

聖体拝領

 テーマである「僕が教会でミサ中に何を感じたり考えているか」でありますが、結論から言えば、いろいろなことを考えているようであり、考えていないと思います。
 たとえば、「今日一日はどんな日にしよう」とか、「あの人は聖歌を歌うのが上手だな」とか些細なことが多いと思います。これは、僕自身がミサに参加することに慣れてきて、感謝の気持ちをもつというよりは、ミサを毎週日曜日のひと時として流してしまっている空っぽな状態からかもしれません。

 小学生のころは、ミサの進行や侍者の動きが把握でてきておらず、周りの方や兄に助けられていました。その頃は自分に優しく教えてくださる教会の皆さんには感謝していたし、主に対しても同じような気持で今よりも純粋に参加していたような気もします。中学生から高校生になり、ミサの流れとか侍者の役割はわかってきたとは思いますが、純粋に周りの方についていこうと奮闘していたあの頃の僕のほうが神はお喜びになられるのではないかと思うのです。

 日曜日のミサは、心を清めて日々の過ちを思い起こし、主である神に祈りを捧げる時間であることは僕も承知しています。ただ、どんなに不慣れであったものでも、回数や年数を重ねると慣れてくるものです。侍者を何回も経験していくにつれて、ミサの流れや侍者の動きを覚えていき、心の余裕が生まれてきて、日曜日のひとときにしてしまっているのです。では、純粋無垢な気持ちでこれからミサに臨めるかといえば、それは難しいと思います。変わった状況に慣れてくると、以前の状態に戻ることは困難といわれています。

これまでのコロナ自粛期間中に生活習慣が大きく変わり、中学卒業から高校入学の期間に学校に行かなかったため、僕の友達も元の生活に戻すのが大変だと嘆いています。何かを変えることより元に戻すことがいかに大変か、今回の教会通信を書くにあたり、自分を冷静に見つめ直してみて痛感したことです。元に戻すことが難しければ、さらにより良い方向に変化できれば良いのです。

ミサの1時間でも、いつも応援してくれる家族や教会の皆さん、そして失われてしまったこれまでの日常を、少しづつ取り戻そうと努力してくださっている医療従事者や学校の先生方に感謝の気持ちを向ける。そんな時間だと捉えることができれば、きっと、これまでとは違った姿勢でミサに臨めるのではないかと感じました。

侍者


献花


千代田・聖母


更新履歴

2018.05.01

教皇メッセージ「世界召命祈願の日」、和野信彦神父「日曜日に集まるということ」を掲載しました。

2018.05.01

新規公開しました。

カトリック静清地区共同宣教司牧委員会