教皇メッセージ
第四回「貧しい人のための世界祈願日」教皇メッセージ
「貧しい人に援助の手を差し伸べよ」
「貧しい人に援助の手を差し伸べよ」(シラ7・32)。古来の知恵はこのことばを、生活の中で従うべき聖なる規範として示しました。このことばは、今日、その重い内容すべてをもってこだまし、本質を見つめ、無関心という障壁を越えられるよう、わたしたちをも助けてくれます。貧困はつねにさまざまな顔をもっており、個々の状態に目を向けなければなりません。その顔一つひとつを通してわたしたちは、兄弟姉妹の中のもっとも小さい者の中にご自分がおられることを明らかにされたかた(マタイ25・40参照)、主イエスと出会うことができます。 (中略)
このパンデミックは突然やって来て、わたしたちの不意を突き、大混乱と深刻な無力感をもたらしました。けれども、貧しい人に差し伸べられる手は、とっさに出されたものではありません。その手はむしろ、必要なときに助けられるようにと、貧しい人に気づけるよういかに準備してきたかをあかししています。突然、あわれみの道具になれるわけではありません。日々の訓練が必要です。それは、差し出される手を自分がどれだけ必要としているかを自覚することから始まります。
わたしたちが経験しているこの時は、これまで確かだと思っていた多くのことがらを揺るがしています。閉塞感と自由の制限を経験したことで、自分がより貧しく、より弱くなったように感じています。仕事を失い、最愛の人とともにいる機会を断たれ、当たり前だった付き合いさえもなくなって、これまでは見えなかった展望が突如、開けました。わたしたちの心の豊かさ、物質的な豊かさが問われるようになり、自分が恐れていることに気づきました。自宅にじっとこもっている間に、質素であることと、本質的なものを見つめ続けることがいかに大切であるかに、改めて気づいたのです。そして、互いに助け合い、敬い合うことのできる、新たな兄弟愛が必要だという思いを深めました。
今こそ好機です。「わたしたちは互いを必要としていること、他者と世界に対して責任を共有していること、……こうした確信を、わたしたちは取り戻さなければなりません。もう長らく、倫理、善、信仰、誠実さを茶化すことで、わたしたちは道徳的退廃を経験してきました。……社会生活の基盤が腐ると、対立する利害をめぐる争い、新たな形態の暴力と蛮行、そして環境を気遣う真の文化の成長の阻害が確実に起こります」(回勅『ラウダ―ト・シ』229)。つまり、隣人とあらゆる人に対して各人が覚えるべき責任をないがしろにし続ける限り、経済、財政、政治の深刻な危機は収束しないのです。 (中略)
「何事をなすにも、おまえの人生の終わりを心に留めよ」(シラ7・36)。このことばによって、シラ書はこの考察を締めくくります。このことばには二つの解釈があります。第一の解釈が示しているのは、わたしたちは自分の人生の終わりについてつねに考えなければならないということです。同じ定めにあることを思い起こすことは、自分よりも貧しく、同等の可能性に恵まれなかった人に目を向けて生きる助けとなります。一方、第二の解釈は、むしろ目指すところに、つまり皆が向かっている目標に焦点を当てています。それは、計画を実現させ、倦むことなく最後まで旅を続けるよう求められる人生の目的です。もちろん、わたしたちのあらゆる行為が目指すのは、愛以外にはありえません。愛こそが、わたしたちが目指す先であり、何があってもそこから目をそらしてはなりません。
この愛は、分かち合い、献身、そして奉仕ですが、それは、まず自分たちが愛されていること、そして愛するよう駆り立てられていることに気づくところから始まります。この目指す先は、子どもが母親の微笑みに接し、ただ存在しているだけで愛されていると感じるときに現れるものです。貧しい人とわたしたちが交わす微笑みも、愛の源であり、それにより喜びのうちに生きられるようになります。そうして、自分の存在や提供した援助を目立たせず、キリストの弟子としての生き方にのみ喜びを覚える人の微笑みによって、差し出された手はなおも豊かにされるのです。
だれよりも貧しい人の母でおられる神の母が、貧しい人と日々出会いながら歩むこの旅に寄り添ってくださいますように。おとめマリアは、社会の片隅に追いやられた人の困難と苦しみをよくご存じです。ご自身も馬小屋で御子を産んだからです。そして、ヘロデ王による迫害から、夫のヨセフと幼子イエスとともに他国に逃れることになりました。聖家族は数年の間、難民として暮らしたのです。貧しい人の母であるマリアへの祈りにより、マリアの愛する子らと、キリストの名においてその子らに仕える人とが一つに結ばれますように。そして、差し伸べられる手が、分かち合いと、取り戻された兄弟愛による抱擁へと姿を変えますように。
年間第33主日 2020年11月15日
ローマ サン・ジョヴァンニ・イン・ラテラノ大聖堂にて
「新型コロナウイルス感染症に苦しむ世界のための祈り」
2020年4月 日本カトリック司教協議会認可

『今月のメッセージ』 2020年 11月
2年前、教会学校のリーダーを引き受けた時、私は教義を教えることと併せて二つの事に気を付けて子供達と接しようと考えました。一つは「教会学校が楽しい」と子供たちに思ってもらう「何か」を工夫すること。もう一つは教義の後で、時には「本音」で話すことです。楽しいと感じてほしいと願うのは、教義を聞き、胸に納め、その後に考えるという行動のその前の段階で愉快で楽しい心持ちでキリストのお話を聞いて欲しいからです。そうすることで彼等にとっての教会が身近で親しみやすいものになるのではないかと思うのです。次に子供たちとコミュニケーションが出来るようになったら、あるいは私を信頼してくれるようになったら、相手の年齢を考慮しながら「本音」の話を時々は入れて話してみようと思います。
私は小さい頃、鎌倉の訪問童貞会の修道院にある聖堂でミサにあずかり日曜学校に参加していました。シスター達の歌ミサと教会学校で紙芝居や聖話、時には紙コップにいっぱいの干しブドウやお菓子などをいただいたり、庭で遊んだりして子供にとって楽しい日曜日を過ごしました。そして今でも思い出すあの楽しさは何だろうと考えて思い当たるのはシスター達の優しさと子供達がもった信頼感だろうと思うのです。私にとってその安心感、信頼感は教会に対する安心感、信頼感にも繋がったように思います。私が教会学校の子供たちに教義と並んで楽しんでほしい、幸せを感じてほしいと思うのは自分の子供時代の経験からそれを望むのだろうと思います。
もう一つの「本音」を話す、という事も実は私自身の経験からですが必要なことではないかと思います。私はシスターや先生達から沢山のお話を聞いて育ちました。小学生の頃はそれで満足し、心の中で不安や疑念もなく過ごしましたが思春期になってから「本当なの?皆、何の疑問も持たないで信じてるの?私には理解できない」と、誰にも言えなかったけれど、心の中は疑念で渦巻き、その疑念を抱えたままミサにあずかる事に大きな苦痛を感じていました。高校、大学生時代の心の中の葛藤は結婚や子育てをして、また、時を味方にしてそれほど心をとがらせずに過ごせるようになり、現在の私になっています。
そのような自分の経験から「ねえ、本当に信じてるの?」という言葉を投げかける人がいてもいいのではないかと思うのです。「解らないことは解らなくていいよ」「もう少し生きたらその疑問が心の底に沈んで神さまをそのまま受け入れられる日がくるよ」「それがお恵みかな、、」と言ってもらえたらどんなに楽になるでしょう。合理的な思考を教育されている現代の大人、子供にとって宗教をそのまま受け入れるのはかなり難しい事です。子供たちが心の中で「変だ」と思い悩む時期が多分くるでしょう。その時、教会学校での会話を思い出してくれたら、そして「疑問に感じてもいいんだな、お恵みとやらで、心にストンと納得できるかもしれない」と思ってくれたら私は本当に嬉しいのです。
この2年間は教会員の皆様のご協力で子供達と私は沢山の楽しい想いを経験できました。勿論、課題は山積していますが心に余裕をもって子供たちと一緒にキリストを感じることができますように焦らずに続けていきたいと思います。今後とも、どうぞ皆様のご協力をお願いいたします。
更新履歴
2020.11.01
2020.10.01
2020. 8.01
2020. 7.01
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2020. 1.01
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