教皇メッセージ
教皇フランシスコ
第55回「世界広報の日」教皇メッセージ(1)
「来て、見なさい」 (ヨハネ1・46)
ー人々と、彼らのいる場で、そのままの彼らと会って、伝えなさいー
親愛なる兄弟姉妹の皆さん
「来て、見なさい」という招きは、イエスと弟子たちとの感動的な最初の出会いの場面ですが、これはつねに人間にとっての真のコミュニケーションの方法でもあります。物語となる人生の真実を伝えるためには、「もう分かっている」という呑気なうぬぼれを捨て、行動し、会いに出掛け、人と過ごし、その声を聞き、現実――その何かが必ず驚きをもたらします――からの示唆を受ける必要があります。 (中略)
ヨルダン川での洗礼の後、イエスは、ご自分のことを知りたいという最初の弟子たちに、「来なさい。そうすれば分かる」(ヨハネ1・39)とこたえ、ご自分とのかかわりの中で生きるよう招かれます。それからおよそ半世紀、老齢となったヨハネがその福音書を記す際、いくつか詳細な「記事」を残して、自分がそこにいたこと、その体験が自身の人生に与えた衝撃を明かしています。「午後四時ごろであった」と記しています。その翌日――ヨハネは続けます――、フィリポはナタナエルに、メシアと会ったことを伝えます。その友は「ナザレから何かよいものが出るだろうか」といって、信じようとしません。フィリポはことばを重ねて説き伏せようとはせずに、「来て、見なさい」といいます。ナタナエルは行って、見ます。そのときから、彼の人生は変わります。キリスト者の信仰はこうして始まるのです。伝聞ではなく実体験で、じかに得た情報として伝達されるのです。「わたしたちが信じるのは、もうあなたが話してくれたからではない。わたしたちは自分で聞いて、分かったからです」――イエスが滞在した村の人々は、後にサマリアの女にそういいます。「来て、見なさい」――これが、現実を知る方法の初歩の初歩です。各報道内容のもっとも確実な検証方法です。把握するためには、会って、目の前にいる人に語ってもらい、その証言を自分で受け止めなければならないからです。
多くのジャーナリストの勇気のおかげで
現実を伝えるものとしてジャーナリズムもまた、だれも行かない場所に行く力、行動力と見ようとする意欲を必要とします。好奇心、開かれた心、そして情熱です。その道のプロとなった多くの人――ジャーナリスト、カメラマン、編集者、ディレクターなど、しばしばとても危険な目に遭う人たちです――の勇気と熱意のおかげで、世界のさまざまな地で迫害を受ける少数派の苦境を今日知ることができ、貧しい人や被造物に対する多くの虐待や不正行為が非難されるようになり、忘れられた多くの争いが伝えられているのです。彼らの声が消えてしまえば、それは報道にとってだけでなく、社会全体そして民主主義にとっても損失となるでしょう。わたしたち人類が劣化してしまうのです。
地球上の多数の現実が、このパンデミックにあってはなおのこと、報道メディアに対し、「来て、見よ」と呼びかけています。このパンデミックについて、他のあらゆる危機と同じように、富裕国だけの目を通して、「複式簿記」で伝えてしまうおそれがあります。ワクチンをはじめ医療全般について、それがいちばんの貧困地域の住人に行き渡らないおそれについて考えてみましょう。アジア、ラテンアメリカ、アフリカの貧しい村の医療への待望を、伝えてくれる人がいるでしょうか。そのように、地球規模での社会的・経済的格差によって、新型コロナウイルスワクチンの配布順位が既定されるかもしれないのです。貧しい国々は、いつでも後回しにされます。健康である権利が万人に原則としてうたわれていても、実態は違っています。非常に恵まれている国にあっても、急激に貧困に陥る家庭のことが社会問題となっていますが、それはほとんど表面化していません。食品支援を受け取るために、羞恥心を捨てて、カリタスの施設前に並ぶ人々の窮状は、ニュースとしてほとんど取り上げられていないのです。 (続く)
「新型コロナウイルス感染症に苦しむ世界のための祈り」
2020年4月 日本カトリック司教協議会認可

『今月のメッセージ』 2021年 7月
魂のない肉体が死んだものであるように
行いを伴わない信仰は死んだものです
(ヤコブの手紙2:26)
草薙教会信徒 グエン・スワン・ギェップ
私は、ベトナムで最初にカトリックを受け入れた土地ブィチューの司教区で生まれました。幼い頃から、祖父母両親兄弟の祈り方、そして教会に行くことに親しんできました。私の国のクリスチャンは、誰もが使徒信条を大切にしています。使徒信条に「私は信じます」とありますが、なぜ人々は胸を張って、見たことも会ったこともない人を「信じます」と告白することができるのでしょう。その信念の背後にある力とは?
私はその答えをどうしても見つけたいと思いました。12歳になり、私は侍者をするようになりました。神父様の近くでお説教をはっきり聞き、眠ることもありませんでした。神父様はお説教のたびに「信仰」と言う言葉を使い、ミサの奉献後「信仰の神秘」と宣言します。信徒はすぐに「主の死を思い復活を称えよう、主が来られるまで」と称賛します。信仰とは何かしら? まず両親に尋ね、聖書を教えてくれた先生にも尋ねました。全ての人の答えは同じでした。「信仰は恵みです。」その時の私は意味が分かりませんでしたが、心には残り、正しい答えだとも思いました。私は聖歌隊に参加し、朗読をし、信仰告白もしました。しかし、信仰が何であるか理解していなかったことは罪だと思います。
私は学生時代、ハノイの大聖堂での青年ミサに出席し、聖ヤコブの「魂のない肉体が死んだものであるように、行いを伴わない信仰は死んだものです」という言葉を聞きました。何度も聞いた言葉ですが、その日は特に注意深く聞き、司教様のお説教に非常に感銘を受けました。信仰は与えられるものであり、信仰を持つことは神の恵みを持つことだと私は悟りました。神を喜ばせて生き、愛を持って生き、神に倣うことを愛さなければならないと思います。神は人々を愛するために命を捧げたのですから。
そのミサで司教様は「信仰は言葉だけでなく行いによって示さなければならない」と言われました。そして、「私達が受ける信仰の種は、私達が協力してこそ実を結ぶことができます。信仰は、種に水が必要であるように、良い行い敬虔な行いを必要とし、それによって発芽し成長し実を結びます。神との友情を強めるために熱心に祈る、神の言葉を読んで黙想する、信仰を成長させるために聖体拝領や告解などの命を与える秘跡に与る、これらは私達に必要なことです。 祈らず、ミサに与らず、神の言葉に従わず、特にキリストの体と血を受けなければ、その人の信仰は暖炉の残り火のようになり、すぐに滅びて灰になります。魂の中で信仰はゆっくりと死んで、もはや信じられなくなります。信仰がなくなると、人々は簡単に不義な欲求にふけり、簡単に悪を行う罪の道に入ります。しかし、徳のある行いで信仰を育めば、信仰は持続します。」
私はこの時、信仰は、神から与えられた貴重な素晴らしい賜物であることに気づきました。私達一人一人が信仰を維持し、それを他の人に広める必要があります。そのために、熱心に祈り、神に会うために教会に行き、神の愛のしるしとして聖体を受け取ります。私の生活には、信仰が弱くなることや神に喜ばれないこともたくさんあります。しかし、その青年ミサの後、私は大胆に信仰を告白することができたのです。100人ぐらいの学生の中で、カトリック信者は誰かと尋ねられた時、おそらく聖霊が私に力を与えてくれたので、私はカトリックであると宣言しました。その瞬間の恵みを、今も神に感謝しています。
私達は皆何らかの形で神の恵みを得ますが、時には、うまくいかないと嘆くこともあります。それが神の恵みであることに気づかないのです。 今私には、生後6ヶ月の女の子と2年前に受洗した妻がいます。願わくば私の小さな家族も含めて、私達が神の恵みで満たされ、毎日信仰を表し、それを発展させることができますように。
更新履歴
2021.4.01
2021.3.01
2021.2.01
2020.11.01
2020.10.01
2020. 8.01
2020. 7.01
2020. 2.01
2020. 1.01
2019. 12.01
2019. 11.01
2019. 10.01
2019. 9.01
2019. 7.01
2019. 6.01
2019. 5.01
2019. 4.01
2019. 3.01
2019. 2.01
2019.1.01
2018.12.01
2018.11.01
2018.05.01
新規公開しました。