ブドウの枝

今月のメッセージ

教皇メッセージ

2021年
「世界宣教の日」教皇メッセージ
   
親愛なる兄弟姉妹の皆さん
 神の愛の力を経験したとき、個人や共同体の生活の中で御父の存在に気づかされたとき、わたしたちは、見たことや聞いたことを告げ、分かち合わずにはいられません。イエスの弟子たちとのかかわり、すなわち、受肉の神秘、福音、復活によって明かされたイエスの人間性からは、神がわたしたち人間をどれほど愛しておられ、わたしたちの喜びや苦しみ、望みや不安をご自分のものとされているかが示されます。キリストにおける何もかもが、わたしたちの生きる世界とそのあがないの必要性はキリストにとって他人事ではないことを思い起こさせ、また、この宣教活動に積極的に加わるよう呼びかけています。「町の大通りに出て、見かけた者はだれでも婚宴に連れて来なさい」(マタイ22・9)。だれもよそ者ではなく、このあわれみの愛を、自分とは無関係な縁遠いものと思う人はいないのです。    (中略)

 わたしたちはこうしたすべてについての生きたあかしをおさめた使徒言行録を持っており、この書物は宣教する弟子たちが常に大切にしてきたものです。福音の香りがどのようにして広がり、主の霊のみが与えうる喜びを呼び覚ましたかを記した書です。使徒言行録はわたしたちに、キリストを胸に抱くことによって試練を生きることを教えています。それによって、「神はあらゆる状況の中で、失敗と思われる状況でさえもお働きになるという確信」や、「愛ゆえに自らをささげて神にゆだねる人は必ず実を結ぶ(ヨハネ15・5参照)」という確信が成熟するのです。

 わたしたちも同じです。今のこの時代も、たやすくはありません。パンデミックという状況は、すでに多くの人が苦しんでいる、痛み、孤独、貧困、不正義を明らかにして増大させ、またわたしたちの偽りの安心感、わたしたちを密かに引き裂く細分化や分極化を露わにしました。もっとも弱くて傷つきやすい人が、なおいっそう脆弱に、壊れやすくなったのです。わたしたちは落胆し、幻滅し、疲労し、希望を奪うあきらめの気持ちに、視野が遮られてしまったのです。けれどもわたしたちは、「自分自身をのべ伝えるのではなく、主であるイエス・キリストをのべ伝えています。わたしたち自身は、イエスのためにあなたがたに仕えるしもべなのです」(二コリント4・5)。ですからわたしたちは、自分の心にこだまし、語りかけるいのちのことばが、共同体や家庭で鳴り響くのを感じます。「あのかたは、ここにはおられない。復活なさったのだ」(ルカ24・6)と。希望のことばは、そのことばにふれるがままでいる人にあらゆる決定論を打ち破らせ、自由と立ち上がるために必要な勇気を贈ります。そして創造性をもった共感を生きるすべての方法や、だれ一人道端に捨て置きはしない神がわたしたちと近しくあられるという―秘跡性―を探し求めます。

 このパンデミックの時代、正しいソーシャルディスタンスという名目で、無関心と無感動をマスクで覆って正当化する誘惑に直面する中で、求められる人との距離を、出会い、世話、活動の場にできる、あわれみの宣教が急務です。「見たことや聞いたこと」(使徒言行録4・20)、つまり、わたしたちが受けてきたあわれみが、「時間、努力、財産を割くべき、帰属意識と連帯の共同体」(回勅『Fratelli tutti』36)を築くべく、皆で抱く情熱を取り戻すための基準点となります。主のみことばこそが、毎日わたしたちをあがない、「どの道変わりはしない、何をしても無駄」というもっとも卑しむべき懐疑主義に閉じこもる言い訳から救い出してくれるのです。「自分には大して利益もないだろうに、どうして己の安全、快適さ、快楽を手放さなくてはならないのか」という問いに対し、いつも答えは同じです。「イエス・キリストは罪と死に打ち勝ち、力に満ちておられるのです。イエス・キリストはまさしく生きておられ」(使徒的書簡『福音の喜び』275)、わたしたちにも生きてほしい、友愛をもって、この希望を抱き、分かち合えるようでいてほしいと願っておられるのです。現在の状況で早急に求められているのは、希望の宣教者です。自分一人で救われる人はだれもいないことを預言的に気づかせてくれる、主に油注がれた者です。        (以下略)
   
        2021年10月24日   ローマ サン・ジョヴァンニ・イン・ラテラノ大聖堂にて

   「新型コロナウイルス感染症に苦しむ世界のための祈り」
          2020年4月 日本カトリック司教協議会認可

Popes Crest
フランシスコ教皇訪日記念ミサ

『今月のメッセージ』 2021年 10月

『当たり前』について考える
          
   神の愛を証しする力を育てる部門 代表 新貝元一

  このごろ家にいる時間が増えてきたので、本を読むことが多くなりました。本といっても私は大の活字嫌いなので、文字だけを見ていると2ページほどで眠くなってしまいます。私が読むのは漫画に限りますが、漫画も役に立つ情報が得られる優れたツールです。最近はスマートフォンで漫画を読むことができます。1日1話づつ10作品ほどを毎日読んでいます。特に人間ドラマものが好きなのですが、作品の一つに目からうろこの言葉を発見しました。

 ある会社の昼休みに上司が、部下の男性職員に言った言葉です。
 ここに当たり前のようにある弁当も、奥さんがいつも健康を維持して、同じ時間に起きて、朝ごはんの用意や子どもの世話をしながら、時間通りに準備を整える。「当たり前」を作り出すには、そんな奥さんの努力がなければ成り立っていないんだよ。「当たり前」を流して見てはいけないよ。

 振り返ると私も感謝の言葉は言っていましたが、潜在的に「あって当然のもの」の領域で取り扱っていたような気がします。仕事から帰れば御飯が食べられる。朝になったら洗濯された服が着れる。全て日常すぎて見えているのに動きをしっかり見ていなかったなと思いました。

 私たちは生きる中で「当たり前」と思って、もしくは思うこともなく安定した施しを受けています。自由に出かけられ、自由に遊びに行き、自由に食事に行く。それが当たり前でした。現在、コロナの感染拡大にともない、今まで普通に出来ていたことが出来なくなりました。出来ないことが増えると、人はストレスを感じて苛立ち、いいことを考えなくなります。
しかし少し視点を変えてみると、当たり前を構成する要素は何かを再確認するよい機会とも言えます。

 例えば、現在コロナ禍で自由に外出できない日々が続いています。自由な外出を構成する要素は、健康な体、時間的余裕、安全性、経済状況、移動手段。そのほかにも沢山あるとは思いますが。この要素を見ると、自由な外出を阻害しているマイナス要素は「安全性」ぐらいで、その他の要素はプラスの要素としてしっかり私達を支えてくれていることがわかります。私の屁理屈の様な意見ですが、何かが出来なくことを単純に不幸と思うのではなく、当たり前を作り出してきた構成要素をよく見極めていくことで、物の見方や幸福の考え方が変わっていくと思います。

 当たり前という言葉は聖書にも記されています。
「わたくしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、ご存じなかったのですか」(ルカ2:49)

   この「当たり前」はギリシア語の「デイ dei」という言葉の訳で。「必ず~することになっている」「どうしても~しなければならない」と訳されるそうです。死と復活を通してイエスが「父のところにいる」のは当たり前のこととされました。この当たり前を構成する要素は何でしょうか。

「いつも喜びを忘れずにいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい」(テサロニケⅠ 5:16-18)だと思います。

 この巻頭言を作成するにあたり、喜び・祈り・感謝・・・・忘れている時があるなぁ、と気づかされました。作成を依頼されたことに感謝いたします。

感謝


ロザリオ


世界の子ども


よきサマリア人


更新履歴

2018.05.01

新規公開しました。

カトリック静清地区共同宣教司牧委員会