今月のメッセージ

ローマ教皇フランシスコのメッセージ

2018年「貧しい人のための世界祈願日」教皇メッセージ

 「この貧しい人が呼び求める声を主は聞いてくださった」
 貧しい人に対する神のこたえは、心身の傷をいやし、正義を取り戻し、尊厳ある生活を再び送れるよう助ける救いのわざとしてつねに示されます。神のこたえはまた、神を信じるすべての人が同様のことを人として可能な範囲で行うようにとの招きでもあります。

 「貧しい人のための世界祈願日」は、貧しい人が自分の叫びはむなしく消えてしまうと思わないようにするために、世界に広がる全教会が、あらゆる状態と地域の貧しい人にささやかなこたえを示す日です。それは貧しさという荒れ野に落ちた一滴の水のようなものかもしれません。しかし、困窮している人々との分かち合いを表すしるしとなり、積極的にかかわる兄弟姉妹がいることを伝えることができます。

 貧しい人が必要としているのは、代理人の派遣ではなく、彼らの叫びを聞いた本人がかかわることです。信者の心遣いは、支援という一つのかたち――まず必要なものであり、み旨にかなっていますが――に限定されるべきではありません。相手を人間として尊重し、その幸福を願う「愛のまなざし」(使徒的勧告『福音の喜び』199)を向けることが求められているのです。
                
             年間第33主日 2018年11月18日

フランシスコ教皇

『今月のメッセージ』 2018年11月


死 者 の 日
                     清水・草薙教会主任司祭  髙橋愼一神父

崔助祭・司祭叙階式

 11月2日は、教会の典礼歴では、「死者の日」です。
御ミサの時には、いつもそうですが、特に死者の日には、亡くなった方々のために、共に御ミサの中で祈ります。
 
 11月ともなりますと、日が暮れるのが早くなったことを皆さんも感じているでしょう。 キリスト教を受け入れる以前の、古代ヨーロッパのケルト人の社会では、一年のカレンダーは、今で言う11月の時期に年末になりました。 そして、彼らは、日が早く落ちて、暗くなるこの時期を一年の終わりと考えて、先祖の死者たちが自分たちを訪ねてくると考えていたのです。 しかし、家族も死んでしまって、誰も待っていてくれる人もいない死者は、知らない人の家のドアをノックするしかありません。

 現代の子供たちが楽しみにしているハロウィンの起源は、ここにあります。
「ご馳走をくれないと悪戯するよ。」ドアをノックしては、楽しそうに叫びます。
ハロウィンのカボチャのお面をつけた優しい瞳の子どもたちの背後には、誰にも迎えられない孤独な死者の霊たちが、ぞろぞろ並んでいるのかもしれません。
 
 寂しがっている死者のために私たちは、何をすることができるでしょう。
ミサの中で、私たちは死者の霊のために、お菓子ではなく、お祈りをプレゼントします。
 ミサの祭壇を囲み、イエス・キリストの御聖体を頂く私たちが、いつの日か天国で、死者の人たちと復活の喜びの食卓を囲むことができるようにと祈ります。 皆さんの中には、教会の祭壇の前に置かれた家族や友人の棺を前にして、涙を流しながらお祈りした方もいらっしゃるのではないでしょうか。 キリストを信じる人たちにとっても家族や友人の死は悲しいものです。しかし、その悲しみの涙は、天国で再び出会う喜びの準備となるものです。
 
 この死者の日の聖書朗読の中から、幾つかの大切なポイントをお話したいと思います。
 第二朗読の使徒パウロのローマの教会への手紙に次のように書かれています。
 「だれがわたしたちを罪に定めることができましょう。死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成ししてくださるのです。」
 
 私たちが神の前で罪を自覚するのは、神から離れて行くためではありません。
エデンの園で、自分たちの罪を自覚したアダムとエバは、神の眼差しから逃れようと木陰に身を隠してしまいます。
 しかし、私たちにとってイエス・キリストの執り成しが手に負えない罪はありません、あり得るとすれば絶望の罪だけでしょう。
 
 罪の自覚とは、神から離れていくためにではなく、キリストに救いを求めるための気づきなのです。
 パウロは、次のようにも言っています。「だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。」
 たとえ、私たちが重い病に苦しみ、身体の死に向かわなければならない時にも「今泣いている人々は幸いである。あなたがたは笑うようになる(ルカ6:21)。」というイエス様の言葉を信じて、希望を失わないようにしましょう。
 
 死者の日のミサの福音の中で、イエス様は、「父がわたしにお与えになる人は皆、わたしのところに来る。わたしのもとに来る人を、わたしは決して追い出さない。」と力強く宣言されています。実に、私たちにとって永遠の命とは、イエス・キリストと共にいることです。 イエス様は、「わたしの父の御心は、子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり、わたしがその人を終わりの日に復活させることだからである。」と聖書の中で仰っています。亡くなった人たちと、いつの日か天国で再会する事を希望していのりましょう。

    富士霊園のカトリック墓地

  亡くなった方々のために祈りましょう

 「私を信じる者は、たとえ死んでも生きる」
             
ヨハネ11:25

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カトリック静清地区共同宣教司牧委員会